天守って何?国宝・重要文化財に登録されている日本の「現存天守」12城
画像:弘前城「幻想天守」(弘前市観光政策課)
1576年~江戸時代の初期にかけて建てられた城には「天守(てんしゅ)」と呼ばれる櫓(やぐら)が造営されています。ただし、すべての城が天守を設けていたわけではありません。
なかには山城や平城など天守を備えていない城もありました。当時、天守のある城は150を超えていましたが、合戦で焼失したり廃城令によって取り壊されたり、現存する天守は12城のみとなっています。
国宝や重要文化財に登録されている現存天守もあり、まさに”名城”と呼ぶにふさわしい立派な造りです。お城めぐりや城を訪ねる際は、知っておくと見どころ2倍になるポイントですね。
そこで今回は、日本に現存する天守12城を紹介いたします。天守の意味や現存天守と復元天守の違いなども簡単に解説するので、ぜひ参考にしてみてはいかがでしょうか。
天守とは?
画像:消失前の破損した状態「若松城天守」(鶴ヶ城天守閣郷土博物館)
天守は天守閣と呼ばれることもあり、城の中心部に造営された大櫓(おおやぐら)です。織田信長が安土城を建てた際、1576年に五層七重の天守(天主)を設けたことが始まりと言われています。
読んで字のごとく、天守は「天から守る」という意味が込められていますが、主な役割は兵学の「天守十徳」によると次のような目的が記されています。
1城の敷地内を監視できる
2城下や城外を見渡せる
3遠方を見望できる
4上から見ることで城内の兵を効率的に配置できる
5城内に気を配れる
6守りの際に指示がしやすい
7敵の侵攻を察知しやすい
8飛び道具に対する防御
9非常時に戦法を自在に変更できる
10城の象徴、権威的な役割
※兵学・・・軍事や国防、近代以前の日本における戦略や戦術などを研究する学問
なかでも、天守の主な役割は次の4つではないでしょうか。
監視
天守は城内で最も高い位置に設けられているため、場内や城外、城下や遠方など広範囲を見渡すことができ、敵の侵攻や兵の配置など監視の目的を果たしていました。
権威
天守がある城と無い城では見た目のインパクトに大きな差があります。天守は城の象徴であり、権威を示す役割もありました。つまり、城主のプライドを天守で表現しているわけです。
避難
非常時を想定し、避難場所としての役割もあります。侵入しにくい位置にあり、立て籠もることを考えて常に食料が蓄えられていたそうです。いわば、”最後の砦”といった感じでしょうね。
倉庫
櫓(やぐら)と言うだけあって、倉庫の役割が大きかったようです。書物や食料、武器や家宝、お金や資産などを保管しておく場所として天守が活用されていたという記録が残っています。
現存天守とは?
画像:大阪城の「復興天守」(大阪城天守閣)
戦国時代(1576年)~江戸時代の初期にかけて、日本には天守を備える城が150以上あったとされています。しかし、明治6年に「廃城令」が下されると、次々と城が取り壊されました。
また、合戦によって消失した天守もあります。それでも当時の状態を維持したまま現在まで残っている天守が「現存天守」です。最も古い現存天守は425年前に造られた松本城の望楼型の天守。
松本城は国宝に登録されており、犬山城や彦根城、姫路城も国宝に指定されています。姫路城の天守にいたっては、世界遺産にも登録されました。現存天守12城のうち、残り8城は重要文化財です。
そして、天守の区別(現存天守と、その他の天守の違い)については大まかな定義が設けられています。
天守の区別
<現存天守>
当時に造られたまま野外において保存され、現在も状態が保たれている天守
<現存しない天守>
現在は存在しない城だが、文献や写真など存在した当時の状態を示す資料がある天守
<木造復元天守>
文献や写真など資料をもとに当時の工法や技法を用いて忠実に復元した天守
<外観復元天守>
文献や写真など資料をもとに外観だけを復元した天守
<復興天守>
過去に存在していたことがわかっており、同じ場所に現存する城を参考にして造られた天守
<模擬天守>
過去に存在していたか定かではないが、イメージやデザイン的な要素で現代に造られた天守
天守が造られた時期
安土桃山時代(戦国時代)・・・1568年~1603年
江戸時代~明治時代・・・1603年~1868年
上記の時期に造られた天守で、なおかつ、その当時の状態が現在まで保たれている天守が「現存天守」に該当します。現存天守として認められているのは、国内において12城のみです。
姫路城(世界文化遺産)
画像:姫路城天守閣(姫路市)
<基本データ>
天守の築造:1601年~1609年
アクセス:兵庫県姫路市本町68
備考:国宝・重要文化財・ユネスコ世界遺産・日本三名城
1333年ころ、鎌倉時代の後期、播磨(神戸)の豪族だった赤松則村が姫山に1200の兵を集結させ、後醍醐天皇を護衛するために京都に向かいました。
その13年後、則村の次男・貞範が姫山に小さな山城を築きます。これが姫路城の起源。以降、1567年には黒田孝高(官兵衛)が信長に姫路城を差し出し、1580年に豊臣秀吉が入城します。
関ヶ原の合戦後、池田輝政が城主となり、1601年~1609年にかけて5層6階・地下1階の天守を築きました。1993年には国宝に指定され2009年~2014年に大規模な改修が行われています。
とにかく城内は重要文化財に登録された建造物ばかり。その数、なんと74ヵ所。大天守や西小天守など計6ヵ所は国宝に、大天守については世界遺産に指令されました。
松本城(国宝)
画像:松本城天守(松本城管理事務所)
<基本データ>
天守の築造:1593年~1633年
アクセス:長野県松本市丸の内4-1
備考:国宝
1504年、信濃(長野)の守護を任せられていた小笠原貞朝が家臣の島立貞永に築城させ、深志城と名づけたのが松本城の起源です。
1550年には武田信玄が小笠原長時を攻め、深志城から追放すると馬場信春(信房)を入城させます。その後、武田家が信濃国を運営する際の拠点となりました。
1582年に武田家が滅亡し、本能寺の変が起こると、徳川家康が信濃の領地を獲得し、1583年には徳川の家臣となった小笠原貞慶(貞朝の孫)が城主となり、松本城へと改名しています。
1590年、松本藩の初代藩主・石川数正が入城し、その3年後に2代目藩主となった石川康長によって天守の工事が始まり、1613年には、再び小笠原家の居城となりました。
松本城は黒と白の対比が美しく、天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓が国宝に指定され、秀吉の時代には軍事的な造りが目立ちましたが、江戸時代には家光の増築により優雅な造りに変わっています。
彦根城(国宝)
画像:彦根城天守(公益社団法人-彦根観光協会)
<基本データ>
天守の築造:1604年~1622年
アクセス:滋賀県彦根市金亀町1-1
備考:国宝・重要文化財
1602年、当時、近江(滋賀)佐和山城主は井伊直政でしたが、関ヶ原の合戦で受けた傷が悪化して死没すると、長男の井伊直継が城主となりました。
1603年から琵琶湖と中山道に挟まれた小山に築城を開始し、19年後に彦根城が完成。明治6年の廃条令によって取り壊されそうになりましたが、明治天皇の意向により廃城の危機を回避しています。
1878年10月、北陸の視察を終えて彦根を通った明治天皇が、「この城は取り壊してはいけない。保存して残すように」と明治政府に命じました。当時から、立派な城だったということですね。
天守が国宝に登録されており、西の丸の三重櫓・天秤櫓・佐和口多聞櫓は重要文化財です。また、御馬屋は珍しい遺構として、ほかの城には例をみない造りとなっています。
犬山城(国宝)
画像:犬山城天守(国宝犬山城)
<基本データ>
天守の築造:1620年
アクセス:愛知県犬山市犬山北古券65-2
備考:国宝
1537年に織田信康(信長の叔父)によって犬山城が建てられ、信長の時代には家臣の池田恒興が入城し、信長の死後、次男の信雄が跡を継ぐと家臣の中川定成が城主となりました。
1584年に小牧長久手の戦いが勃発すると、犬山城は秀吉の支配下となり、作戦拠点となっています。
1620年、江戸時代の初期に徳川から指示を受けた尾張藩の成瀬正成によって城の大改修が行われ、その際に3層4階・地下2階の天守が造営されました。
現代まで地震や台風、戦時下の空襲など被害を受けながらも、天守や城門、櫓(やぐら)など建造物は当時のまま現存しています。ちなみに、犬山城の別名は「白帝城」。
桃が描かれた亀の甲羅は魔除けを意味し、侵入者を防ぐための石落としなど見どころ満載です。せっかく犬山城を訪れたなら、「木曽川」の散策や「犬山城下町」の遊覧を楽しんでみてはいかがでしょうか。
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