実は"猛将"ばかりじゃない?「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれた武将たち(中編)
前編では「加藤清正」と「加藤嘉明」について紹介しましたが、中編では酒乱で有名な「福島正則」と賤ヶ岳七本槍のメンバーの中では陰に埋もれがちな「片桐且元」のプロフィールを紹介したいと思います。
前編でも言いましたが、7人のメンバーのプロフィールを紹介するという至ってシンプルな内容になっていますので、おさらい程度に読み進めて頂けると幸いです!
↓前編はこちら↓
実は"猛将"ばかりじゃない?「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれた武将たち(前編)
福島正則
画像:福島正則の肖像(東京国立図書館)
酒が好きで酒乱な正則は、合戦での暴れっぷりも豪快で猛将と称えられるほど腕っぷしの強い男でした。加藤清正や加藤嘉明と同じように正則も秀吉子飼いの(子供のときから秀吉に育てられた)武将。
22才になると正則は「山崎の合戦」で活躍し、さらに秀吉と勝家が衝突した「賤ヶ岳の戦い」でも武功を挙げ、わずか3年で10万石の大名になります。賤ヶ岳七本槍の中で、もっとも早い出世。
二度の朝鮮出兵でも先陣を切って敵兵と戦い、大いに秀吉の期待に応えました。ところが転機が訪れます。秀吉が他界し、家康が天下人となるのです。家康につくか豊臣家に仕えるか、正則は悩みました。
結果、正則は家康に仕えることになりますが、三成に嫌悪感を抱いていたことが豊臣家を離れた大きな理由ですね。関ケ原の戦いでも東軍に加勢し、武功を称えられた正則は安芸(広島)49万石を拝領。
とはいえ、秀吉恩顧の(秀吉に可愛がられていた)武将ですし、家康に仕えてからも豊臣家を慕っていたのは確か。
家康の目を気にして秀頼から距離をとる武将がほとんどなのに、堂々と秀頼を気にかけるような行動をとって周囲から「怒られるぞ」と不審がられるも、「惚れた男には仁義を通す」とキッパリ断言。
しかし、大坂の陣が勃発したとき、豊臣勢から「もちろん豊臣家に加勢するよね?」と誘われると、正則は「つねに時は動いている。決断するには3年遅かった。こうなっては、あとの祭りだ」と断っています。
単細胞で感情的で暴れるだけが取り柄の男と思われがちですが、実は状況を分別する"賢さ"も持ち合わせていたわけです。ちなみに、冒頭で言ったように正則は酒好きでしたが、酒にまつわる失敗談も多い武将なんです。
ある日、黒田長政に用事を頼まれて正則のもとを訪れた母里友信と一気飲み対決をすることになります。正則は友信に酒を勧めましたが「主人(長政のこと)から禁止されていますので私は結構です」と断られました。
とはいえ、すでに酒が入っている状態の正則には何を言っても無駄。正則は次第に絡みはじめ、「この根性なしが!黒田家の人間は肝が小さいな」と挑発するんですよ。この友信も酒飲みで、合戦では猛将と恐れられる男。
ここまで言われて黙っているわけがありません。しかし、ただ酒を飲むだけでは気が治まらない友信は正則に博打を仕掛けました。「正則殿、酒比べで私が勝ったなら福島家の家宝「日本号」を貰っていきますぞ」と。
日本号とは天下三名槍の一つで、重量が23キロもある大槍。正親町天皇が室町幕府の将軍・足利義昭に贈り、信長が義昭を追放したときに奪取し、気づけば秀吉のものになっていて、家臣だった正則が秀吉から譲り受けていました。
つまり、"賭け"に使っちゃいけないお宝ということ。でも、酒が入って気が大きくなっている正則には関係なし。
「面白いじゃないの友信くん。もし勝ったら持ってけよ」と友信の挑発に乗ってしまうんですね。結果は、というと・・・友信の勝利。日本号を持って黒田家に帰ってしまいました。
翌日、我に返った正則は「友信くん、日本号を返してくれない?」と頼みましたが「男に二言はないですよね?」と断られ、その後は正則の手から離れ黒田家の家宝になったそうです。
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