画像:月岡芳年 絵「神武天皇」(東京都立図書館
1875年2月13日に明治政府が「平民苗字必称義務令」を発令し、すべての国民が自分の名前に「苗字(姓)」を付けることが義務づけられた。
江戸時代の後期(1801年)に「苗字帯刀の禁令」が出され、帯刀=武士や貴族でない者は苗字を名乗ってはいけないことになり、苗字は身分を証明するステータスになった。
明治時代が始まって2年後の1870年9月19日、明治政府は「庶民ノ氏ヲ称スルヲ許ス(一般市民も苗字を名乗っていいよ)」と法律で定めたが、強制ではなかった。
苗字をもつことが完全に義務となったのは1875年2月13日。「平民ニ令シテ氏ヲ称シ、其詳ナラサル者ハ、新ニ之ヲ設ケシム(すべての国民は苗字を決めて登録しなさい)」そう法律で定められたのである。
苗字をもっていないと法律違反。そんな時代もあったなんて驚きだ。しかし、急に「苗字を決めなさい」と言われても、どんな苗字をつけてよいかわからない・・・。
お坊さんに相談したり村の名前を用いたり、なかなか苦労したようだ。ところで、「苗字」の成り立ちをご存知だろうか。いつの時代に苗字は誕生したのか、その起源は今から1900年以上前までさかのぼる。
カンヤマトイワレヒコノミコトの神武東征
画像:神武天皇 御東征(神宮徴古館)
天照大神(日本で最も地位の高い神様)を先祖にもつカンヤマトイワレヒコノミコト(神武。のちに初代天皇となる)が「どの地を都にすれば安らかな国を築けるだろうか」と検討し、兄のイツセノミコトに相談した。
すると、「東には青山に囲まれた美しい国があり、そこには天の神から使命を受けて降り立ったニギハヤヒがいる」と聞かされる。「よし!そこを都にしよう」と決めたカンヤマトイワレヒコノミコト。
地元の日向(宮崎県)・高千穂神社を出発し、ニギハヤヒがいる橿原(奈良)を目指すが、道中でニギハヤヒの家来(ナガスネヒコ)や地域の族が攻撃的な態度をとるから戦うことになる。
奈良はニギハヤヒの領地なので、奈良に都をつくる目的で進行してくるカンヤマトイワレヒコノミコトを敵視するのは当然。つまり、領地を奪いに来ると思ったわけだ。
生駒山(生駒市と東大阪市の中間)でナガスネヒコと一度は戦うが途中で戦うのをやめ、紀伊(和歌山)へと進路を変えて熊野(和歌山県南部と三重県南部)を通って奈良を目指した。
道中、高倉山(伊勢市)の山頂から見下ろすと、三重の族を束ねる族長のヤソタケルとシキヒコが軍隊を率いて国見岳(鈴鹿市の山)で待ち構えているのが見えた。
両者を撃退し、奈良に進行したが、再びナガスネヒコが現れて攻撃を仕掛けてくる。
苦戦を強いられたが、見計らったように雷が鳴ったり氷河や大雨が降ってきたりしてナガスネヒコの軍は戦意を失った。「神が、カンヤマトイワレヒコノミコトに味方している」と。
不思議な出来事にビビっているナガスネヒコの軍は、もはや無力。しかし、ナガスネヒコは諦めず、戦いをやめようとしない。しかも、ひねくれた態度で挑発してくる。
「カンヤマトイワレヒコノミコトさん、神の子であるニギハヤヒ様の領地を奪うのは神に背く行為だよ」
「私も神の子だ。神の子は一人ではない。お前が神の子に仕えているというなら”証拠”を見せなさい」
ナガスネヒコはニギハヤヒの「天の羽羽矢(神の子だけが持っている矢)」を見せると、カンヤマトイワレヒコノミコトも同じものを見せて神の子であることを示したが、それでもナガスネヒコは攻撃をやめなかった。
さらに、ニギハヤヒが暴走するナガスネヒコに「これ以上はやめておきなさい」と命令したが、まったく言うことを聞かなかったので斬り殺した。これが記紀が示す、「神武東征」の大まかな内容である。
※記紀とは・・・
古事記と日本書紀の総称。奈良時代に筆記。日本の神話や古代の歴史を伝える重要な歴史書
ニギハヤヒはカンヤマトイワレヒコノミコトに服従を誓い、奈良の畝傍山に白檮原宮(かしはらのみや)を建てたカンヤマトイワレヒコノミコトはイスケヨリヒメと結婚した。
660年2月11日、カンヤマトイワレヒコノミコトは神武天皇となり、初代天皇となった。奈良が都となり、794年に桓武天皇によって日本の都は奈良から平安京(京都)に移される。
画像:NPO法人奈良県腎友会
2月11日は縁起が良い日とされ明治時代に「紀元節」と名付けられたが、昭和41年に「建国記念の日」へと名称が変わる。ちなみに、建国記念日と呼ぶのは正しくない。正式には「建国記念の日」である。
<カンヤマトイワレヒコノミコトが奈良に到着するまでのルート>
日向(宮崎)→宇佐(大分)→筑紫(福岡)→安芸(広島)→吉備(岡山)
→浪速(大阪)→紀伊(和歌山)→熊野(和歌山・三重)→橿原(奈良) |
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