画像:神武天皇 御東征(神宮徴古館)
2月11日は『建国記念の日』である。ちなみに、”建国記念日”と言うのは正しくない。
昭和41年(1966年)に制定され、国民の休日となった。建国記念の意味は「国ができた日」ではなく、明治時代にあった「紀元節」という祝日が由来となっている。
明治5年(1872年)に制定された「紀元節」が戦後に廃止されたが、昭和32年(1957年)から9回の議案が重ねられ、紀元節は建国記念の日と名前を変え、昭和41年に国民の祝日として復活した。
紀元節とは、カンヤマトイワレヒコノミコトが宮崎から奈良へ上陸し、奈良の畝傍山に白檮原宮(かしはらのみや)を建ててイスケヨリヒメと結婚し、神武天皇となり、初代天皇となった日である。
当時の皇紀元年1月1日を太陽暦にすると660年2月11日となることから、2月11日を「紀元節=天皇が即位した神聖な日」として祝日になった。
つまり、祝日とは休日という意味ではなく、喜びを称える日が本来の意味となる。
2月11日に日本国憲法が発布された
画像:新皇居於テ正殿憲法発布式之図(安達吟光画)
1889年2月11日は『大日本帝国憲法』が発布された日でもある。このとき、発布式(憲法を発表した場)で初めて「万歳」という言葉が使われ、それ以降、めでたいことがあると「万歳」と唱えるようになった。
明治時代の初期において、日本が近代的国家の体制を確立するために必要な屋台骨として最優先で確立しなければならなかったのが憲法だった。
「日本には憲法が必要だ!」と最初に呈したのは坂本龍馬。
一説によると江戸時代の後期、大政奉還に向けて考案した「船中八策」が原型と言われており、これが「五箇条の御誓文」に引き継がれ、憲法の制定へとつながった。
<1867年 船中八策>
新しい国家の在り方・方針を考案し、記した提案書。
幕末、武力での幕府壊滅を望んでいる薩長の動きが強まり、そうなれば徳川幕府との戦いだけではなく幕府を支持する藩とも戦争が起き、日本は内戦・内乱で滅茶苦茶になる。 日本を植民地にしたいイギリスやフランスの動きも強まるだろうし、多くの血を流さずに平和的に解決したい、同時にイギリスやフランスに食い物にされるのを防ぎたい、と考えた龍馬は新しい国家の在り方・方針を8項目にまとめる。 長崎から京都へ向かう船の中で8項目の方針(策)をまとめたことから「船中八策」と名付けた。船中八策の一つが大政奉還(1867年11月9日)である。 龍馬は土佐藩の山内容堂に船中八策を預け、山内は船中八策を基に徳川慶喜と協議し、この意向を了承した慶喜は二条城で政権を天皇へと返還した。 一、幕府は政治の権利を天皇に返し、幕府は天皇に仕える(大政奉還) 二、議会を設け、議員を置き、政治上の重要な問題は議論(公論)してから決める 三、有能な公家や大名だけに官職や官位(国家公務員の地位)を与える 四、外国と条約を結ぶときや友好関係をもつときには平等な条件と道理の通った規則を定める 五、国家の掟を定め、身分に関係なく万人が従う(ここで言う掟とは法律・憲法のこと) 六、海軍を増強する 七、天皇家に直属する軍隊を設置し、政治の拠点となる京都を守る 八、金や銀の値段は外国と等しい価値にする 明治政府が発行した「五箇条の御誓文」には、議会による政治や不平等条約の見直し、憲法の制定などが記されており、船中八策と重なる点が多い。 |
画像:国民宿舎桂浜荘内 高知県立坂本龍馬記念館(仮事務所)
憲法を制定するにあたり、伊藤博文はヨーロッパでの立憲的諸制度の調査をする。1883年に帰国した伊藤(1886年に井上毅に引き継ぐ)は、伊東巳代治、金子堅太郎らとドイツ人で法律顧問のロエスレル、モッセらにアドバイスをもらいながら日本国憲法の草案に取り掛かる。
1888年4月、完成した憲法の草案を枢密院において明治天皇が立ち合いのもと、非公開で審議された。伊藤は首相を辞して枢密院(天皇に関わる機関)の議長となり、この審議の責任者を務めた。
憲法の草案に多少の修正を行い、縁起が良いとされた「紀元節」という日を選んで大日本帝国憲法の発布式が行われた。このとき、皇室典範(天皇に関する法律)も同時に発布されている。
発布式は1889年2月11日の午前11時から始まり、国内の高官(上級の役職)を招いて宮中正殿の大広間で行われ、天皇から内閣総理大臣の黒田清隆に憲法の原本が手渡された。
この式典で、天皇陛下が入場する際に「どんな言葉で出迎えるべきか」が議論され、文部省が「奉賀」を提案したが、臨時編年史編纂掛(国立総合大学)が提案した「万歳」が採用された
また、「ばんぜい」と呼ぶか「まんざい」と呼ぶかについても議論され、東京帝国大学の学長・外山正一の提案で漢呉両音混合(音読み訓読み)に基づいた「ばんざい」に決定した。
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