織田信長が安土城を建てた目的は?安土を選んだ理由は?
1576年1月の中旬、織田信長は安土城の築城を開始した。城の建設地は琵琶湖の東西に面する標高199メートルの安土山の山頂。信長が与えた猶予は3年で、1579年1月の完成を目指した。
城内は豪華絢爛な装飾で奇抜な見た目で柱や骨組みなど構造にも工夫が施されており、それ以降、安土城は建築や設計の模範となり、1579年以降の築城に大きな影響を与えたという。
しかし、わずか6年で廃城となり、幻の城となる。ところで、なぜ信長は安土に城を築いたのだろうか。
なぜ安土を選んだのか?
信長が安土に城を建てた理由は「立地が良かった」からである。安土は琵琶湖の東岸に位置する町で、安土山は琵琶湖に突き出た小さな島のようになっていた。
城を出て直ぐの場所に船が置け、船なら半日ほどで京都へ行ける。また、東海道や中山道、北国街道にも近く、後方には近江(滋賀県)が広がっていた。
湖南(甲賀市)の坂本城には明智光秀、少し北に行った坂田(彦根市)には佐和山城があり丹羽長秀が住んでいたし、長浜城には羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)がいた。
安土城は移動手段の立地や織田家に仕える家臣の居城が近いなど、何かと都合の良い場所であったことがわかる。さて、安土城の建設という大役「普請惣奉行(現場監督)」を任されたのが丹羽長秀。
そして、大工棟梁に任命されたのは岡部又右衛門である。岡部は名古屋生まれの宮大工だが信長とは面識があり、1575年に行われた熱田神宮の造営に参加している。
安土城の建築という役目を授かり、さぞ緊張したことは間違いない。
<岡部又右衛門>
室町時代から安土桃山時代の宮大工。尾張(愛知)出身で、岡部家は室町幕府将軍家の修理亮を勤めた家柄とされる。1575年には熱田神宮造営の大工として参加し、信長との面識がある。
安土城の築城では大工棟梁として5重7階の天守造営を指揮し、その功績を称えられ織田信長より総大匠司の位と日本総天主棟梁の称号を与えられた。
死後に孫の宗光が岡部家を相続し、「岡部又兵衛」と名乗った。現在の名古屋市熱田区にあった岡部屋敷跡には名古屋市教育委員会が史跡表札を建てて丁重に管理している。
参考:岡部家由緒書
岡部又右衛門を題材にした映画「火天の城」では”安土城が完成するまでの経緯”が細かく描かれており、フィクションも織り交ぜられているが参考になるので楽しく・わかりやすく学ぶにはオススメの作品と言える。
<映画「火天の城」>
1576年、尾張熱田の宮大工、岡部又右衛門は織田信長から近江安土(現・近江八幡市安土町)に五重の天守閣を持つ城の設計・建築を命ぜられた。
「天高くそびえ立つ天下一の城を作れ」と。この物語は立ちはだかる難問を岡部と周囲の人物たちの知恵と協力によって克服し、「安土城」として完成させるまでを描いたものである。2009年、公開。
画像:©2009映画「火天の城」製作委員会
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