天下の茶人、千利休が遺した「四規七則」「利休道家」とは?(後編)
画像:小柳静萩書「千利休の茶の七則」(野々市市文化協会)
四規七則(しきしちそく)が「おもてなし」や「作法」の心構えとすれば、利休道家(りきゅうどうか)は「茶道の心得」を表した五・七・五・七・七の和歌です。
利休道家は千利休が生前に詠った(書いた)ものではなく、後世に弟子たちが覚えやすいように語調を整え、利休の教えを100首の和歌に集約したものと言われています。
利休といえば「わび茶」ですが、利休道家の98首目に「茶の湯とはただ湯をわかし茶を点ててのむばかりなることと知るべし」とあり、利休は茶道に華やかさや贅沢を求めないことでも有名です。
茶道とは、湯を沸かし、茶を点て、客人に差し出し、自らも嗜むという自然体でシンプルな行為と説いていますが、無駄を省き、そつなくこなすというのは難しいもの。だから、日々の鍛錬や精進が必要なのです。
そうした「わび茶」の精神と茶道における利休の教えが和歌に込められています。茶道に限らず、“生き方のヒント”として教訓になる言葉も多いので、ぜひ参考にしてみてはいかがでしょうか。
わび茶とは?
華やかな茶道が主流だった室町時代に村田珠光が質素で素朴な「侘び」の要素を取り入れ始め、その精神を利休が受け継ぎ、侘びを主体にして完成させた茶道スタイルが「わび茶」です。
それまで茶器といえば中国から入る唐物が茶道具のステータスのようなものでしたが、利休は唐物には手をつけず、「楽焼(らくやき)」の完成に力を注いだという逸話があります。
楽焼とは、ろくろを使わずに手とヘラだけで成形した後、低い火力で焼き上げた軟質陶器。従来の焼き物と全く異なる手法でつくる楽焼の登場は、唐物が主流の当時では衝撃的な出来事でした。
しかし、利休の頃には楽焼と呼ばれておらず、“今焼”と呼ばれていたそうです。
今焼の材料が聚楽第(秀吉が建てた邸宅)の土を用いていたこと、聚楽第に利休の屋敷があったことに由来して聚楽焼と呼ばれるようになり、のちに楽焼へ変わったという説が広く知られています。
楽焼は「侘び」の精神を象徴する質素で素朴な焼き物でしたが、わび茶の概念が受け入れられ始めると唐物と肩を並べる陶器になりました。こうして、利休の「わび茶」は茶道に革命を起こしたわけです。
また、利休の「わび茶」を物語るエピソードとして、次のような逸話が残っています。
贅より「心」でもてなす
ある日、利休は思い立って「わび茶」を志す旧知の茶人宅を訪れました。突然の訪問に驚いた主人は、不意をつかれたように慌てた様子で利休を茶室へ案内します。
主人は庭の木から柚子を採り、柚子の皮で仕立てた柚子味噌で膳をこしらえ振舞うと、趣のある素朴なもてなしに“侘びの心”を感じた利休は深く感心しました。
次に主人は「大阪から届いた蒲鉾(かまぼこ)」を酒のつまみに、と利休に差し出しました。当時、蒲鉾は非常に高価な食べ物で、手軽に用意できる品ではありませんでした。
「さては私が来ることを誰かに聞き、蒲鉾を取り寄せていたのだろう。初めに驚いた顔をしたのも演技だったのか・・・」と利休はテンションが下がり、「用事を思い出したので帰ります」と言って屋敷を出たそうです。
自然体の中で風情や趣を見出す「わび茶」の作法において、贅沢なもてなしや大げさな演出は必要ないというエピソードですが、その場限りの”にわか仕込み”では見破られてしまうわけですね。
利休道家の中にも「時ならず客の来らば点前をば心は草にわざをつつしめ」とあり、不意に客が来ても見栄を張らず、普段通りに茶を点てるのが好ましいと利休は説いています。
贅沢な振舞いや大げさな対応でもてなすと、「手間をかけさせて申し訳ないな・・・」と相手に気を遣わせてしまうからです。とはいえ、手抜きのもてなしや粗末な扱いをしては失礼。
だから、せめて茶は気持ちを込めて丁寧に点てなさい、という利休の教えですね。もてなしは謹んで(控えめに)行い、客に気を遣わせないように接するのが“ちょうど良い加減”なのです。
画像:千利休肖像(堺市博物館)
冒頭で述べたように、利休道家は千利休が生前に詠った(書いた)ものではなく、後世に弟子たちが覚えやすいように語調を整え、利休の教えを100首の和歌に集約したものと言われています。
「わび茶の精神」や「茶道の心得」を五・七・五・七・七の和歌で表し、現代に至るまで茶道家の“心構え”として語り継がれてきた手本や教科書のようなものです。
今回は、利休道家の中から29首の和歌を紹介しますが、茶道に興味がない人でも気になる言葉が見つかると思います。ぜひ、参考にしてみてはいかがでしょうか。
その道に入らんと思う心こそ我身ながらの師匠なりけれ
その道に入り、それを学ぶには、決意をもって目標を立てなければなりません。学んでみよう、習得しようという気持ちがあれば、その自主性が自分の師匠なのです。
習ひつつ見てこそ習へ習わずに善し悪し言ふは愚なりけり
やってもいないのに批評したり否定したり、偉そうに語ったりするのは愚かです。そんな言葉は重みにかけ、自分の器の小ささを露呈してしまうことになります。そして、それは無責任な行為にもなります。
まずは自分が教わり、実践し、見て確かめ、正しく学び、ちゃんと身につけたうえで、はじめて語れるのです。否定や批判、アドバイスや意見など、責任が伴う行為には積み重ねた実績と経験が柱になるということを忘れずに。
心ざし深き人にはいくたびもあはれみ深く奥ぞをしふる
熱心に教えを乞うてきたら、教える人も熱心に教えなければなりません。知りたい、もっと覚えたいと本気でぶつかってくる人には本気でぶつかり返さないと失礼なのです。
恥を捨て人に物問ひ習ふべし是ぞ上手の基なりける
無知は恥ではありません。恥ずかしいと思って知らないままでいるほうが問題です。師匠や先輩に質問して学ぶことが大切。その場の恥を乗り越えて得た技や知識は一生の財産となります。
上手には数寄と器用と功積むとこの三つ揃ふ人ぞ能くしる
「数寄(本質を見極め)」、「器用(要領や立ち回りを良くし)」、「功積む(経験や努力を積み重ね)」、この3つが揃った人は、その道での上達が見えてくるでしょう。
点前には弱みを捨ててただ強くされど風俗いやしきを去れ
茶道は堅苦しかったりゆったりしたイメージですが、緊張する動作ばかり見ていると客人は退屈になります。かといって、くだけすぎると品格が損なわれて見苦しくなるでしょう。
動作の中に「強(速い)」と「弱(遅い)」をつけ、動きにメリハリをもたせ、そのうえで堂々と背筋を伸ばして茶を点てると、退屈になりがちな茶道の所作がシャキッと引き締まります。
手前には強みばかりを思ふなよ強きは弱く軽く重かれ
茶道とは堅苦しさだけではダメで、時には柔らかく軽やかに、時には重厚さをもたせ、その時々に応じて「よい加減」を見つけ、状況や相手に合わせて臨機応変に“加減”をコントロールすることが大切です。
何にても道具扱ふ度ごとに取る手は軽く置く手重かれ
道具の扱いに気を配れてこそ一流。重い道具を重たそうに持つのは所作として見苦しく、軽い道具や繊細な道具を手軽に扱ったら雑に見えてしまいます。
重いものは軽く、軽いものは重く扱うのが一流の技。そして、道具を手に取るときはサッと素早く、置くときには静かにゆっくり手を放し、道具を敬う気持ちを忘れてはいけません。
手前こそ薄茶にあれと聞くものを麁相になせし人は誤り
茶会(茶事)では懐石料理を食べたあとに「濃茶」を飲み、締めくくりとして「薄茶」を飲みます。濃茶は点てる人の個性が出やすく、茶会において腕の見せ所。
それに対し、茶道で最初に習う薄茶は、お点前(茶を点てる)の基本です。しかし、どんなに立派な濃茶を仕上げても、薄茶をないがしろにすると後味が悪くなって全てが台無しになります。
つまり、「基本」が大切なのです。薄茶の手前には茶道の基本要素が詰まっており、濃茶を点てるのと同じように一つ一つの所作を丁寧に行わなければなりません。
簡単だからと言って流れ作業になると雑になってしまいます。茶道を覚えたての頃、薄茶を真剣に点てていたように、「初心忘するべからず」の精神で客人をもてなしましょう。
濃茶には手前を捨てて一筋に服の加減と息を散らすな
茶を点てる動作や所作の美しさに気を配るよりも「心を込める」ことが大切。かといって、適当に茶を点てるのは論外です。心を込め、丁寧に茶を点てなければなりません。
上手い下手は考えず、腹に力を入れ呼吸を整え、濃茶を点てる(練る)ことに集中し、 茶を点て終わるまでは息を漏らさないくらいの集中力で取り組んでください。
濃茶には湯加減熱く服は尚ほ泡無きやうに固まりも無く
濃茶は、その名の通り「ドロッと濃い茶」です。薄茶でも抹茶でもありません。お湯は熱く、泡は立てず、粉の固まりをつくらないように、しっかり練る(点てる)必要があります。
でも、練る際に時間をかけ過ぎるのもダメ。時間が経てば濃茶が冷めてしまい、台無しになってしまいます。正確な基本と日々の点前で経験を積み、“ちょうど良い加減”の濃茶を仕上げることができます。
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