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坂本龍馬はフリーメイソンだったのか?グラバーや勝海舟との出会い、龍馬暗殺との関係(後編)

どのようにして龍馬は人脈を築いたのか?

19歳で上京し、28歳で海舟に弟子入りし、31歳で長崎を訪れた龍馬。浪人が10年で何十億もの財産を築くのは難しいし、長崎に来て”買い物”した金額は尋常じゃない。

龍馬の資金力には疑問が多いが、何よりも不思議に思うのは、”龍馬の人脈”である。海舟に出会う前の龍馬は武芸や勉学に励む青年。それが突然、薩長同盟に向けてアグレッシブに動き出す。

まず、龍馬の運命をかえる出会いが福井藩主の松平春嶽。この人物がいなければ、龍馬は海舟に会えていない。江戸幕府の重要な職を担っていた海舟は、龍馬にとって雲の上の存在。

海舟の考え方や価値観に共感した龍馬は弟子入りし、海舟が考案した海軍操練所(海軍を作るにあたっての訓練所)の創設に向かって寝る間も惜しんで必死に動いた。

一度は実現した海軍操練所(1864年に神戸に設立)だったが、池田屋事件により訓練所は1年で閉鎖(1865年)。不運なことに、訓練生の中に反幕府の思想をもつ者がおり、この責任を負って海舟は海軍奉行(取締役)を辞めさせられる。

龍馬は訓練所のリーダーを務めていたが、この一件により海舟の立場は弱くなり、海舟は薩摩藩の小松帯刀と西郷隆盛に海龍馬ほか20名の訓練生を引き取ってくれと頼む。

この出来事が、龍馬と西郷を出会わせた。その1年前(1864年)に、海舟は小曽根英四郎の紹介でグラバーに会っている。龍馬も同席しており、翌年(1865年)、亀山社中を創設する。

1859年 グラバーがフリーメイソンに入会
1859年 グラバーが長崎に来日。グラバー商会を設立
1862年 龍馬は勝海舟に弟子入りする
1864年 海舟が神戸に海軍操練所を設立
1864年 グラバーと龍馬が出会う
1865年 海軍操練所が閉鎖。龍馬は鹿児島の西郷隆盛に引き取られる
1865年 長崎に亀山社中を創設
1865年 横浜に日本初のロッジが設立
1866年 長崎と神戸にロッジが設立
1866年 長州藩と薩摩藩が薩長同盟を締結
1866年 グラバーは龍馬の仲介で薩長に武器を売る
1867年 第二次長州征討を行うが薩摩藩のバックアップで長州藩が勝利

とても、よくできた流れである。まるで誰かがシナリオを描いたような展開。海舟と龍馬に関わる出来事が起きた場所に、立て続けにロッジが設立されている。フリーメイソンとの関与を、やはり疑ってしまう。

薩長同盟をきっかけに幕府との対立は激しくなり、もっと大きな戦争が起きれば武器が必要になり、またグラバーに商売のチャンスがくる。もっとデカい戦争を始めてくれ、そう望んでもおかしくない。

しかし、グラバーにとって不快な出来事が起きる。大政奉還である。それまで武力による幕府壊滅を目的に動いていた龍馬が、武力ではなく話し合いで幕府を終わらせる平和的な道を選んだのだ。


画像:明治天皇 絵画と聖蹟「第2回 大政奉還」(明治神宮崇敬会)

武力を使わないということは、当然ながら武器は不要。グラバーにとって大政奉還はビジネスチャンスをつぶされた出来事。推測だが、激怒したに違いない。

大政奉還が成立した翌月、龍馬は暗殺され死亡。誰が殺したのか、未だ解明されていない。

龍馬の死後、イギリスは薩摩藩と交友を深め、1869年に薩摩藩を中心とする軍隊(維新軍または新・政府軍と呼ばれる)と徳川幕府が戦い、この辰巳戦争で薩摩藩が勝利し、徳川幕府は終焉した。

幕末という時代は、アメリカ南北戦争が予定よりも早く集結してビジネスチャンスを逃したフランスやイギリスが、武器の在庫を日本に売りこもうとして、まんまと思惑に踊らされた幕府と薩長が戦った時代。

グラバーの視点になって仮説を立てると、次のようなシナリオが出来る。

戊辰戦争が始まると今度こそビジネスチャンスを逃すまいと、グラバーは大量の武器をジャーディンマセソン商会に発注し、「徳川幕府を武力で壊滅しよう!」と目的を明確にする。

当時、イギリス政府は公文書に薩摩藩を中心とする軍隊を”エージェント”と記しており、なんとしてでも戦争を起こさせて利益を得ようと考えていたのではないか、と。でなければ、”エージェント”なんて言葉は使わないだろう。

一方、龍馬の視点になって仮説を立てると、次のようなシナリオが出来る。

グラバーに途中まで乗っかっていた龍馬だが、ある疑念を抱く。「日本を良くしたいと思っていたのに、このままではイギリスの武器市場になってしまうのではないか」という不安。そうすれば、武力の国になってしまう。

武力による幕府壊滅の流れを止めるべく、戦争を起こさず平和的な解決を望むには大政奉還を実現させ、天皇と幕府が一緒に政治を行うことが日本の未来につながると考えたのではないだろうか。

第二次長州征討で薩長が幕府軍に勝利すると、急いで龍馬は「船中八策」の原本をつくり、幕府とつながりのあった土佐藩の山内容堂に「大政奉還の実現に力を貸してほしい」と頼んだ。

山内は徳川慶喜と話し合い、「大政奉還」は無事に実現。この”裏切り者”の龍馬はグラバーやイギリスにとって利用価値がない。むしろ、いろんな内情を知っているから厄介者である。

誰が龍馬を暗殺したのかは不明だが・・・、これ以上は言わないほうがよさそうだ。

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