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坂本龍馬はフリーメイソンだったのか?グラバーや勝海舟との出会い、龍馬暗殺との関係(後編)

結論、龍馬はフリーメイソンの会員だったのか?


画像:高知駅(JR四国)

もし龍馬がフリーメイソンの会員なら、グラバーに逆らうようなことはしなかったはず。フリーメイソンとして同じ思想をもち、大政奉還や船中八策などグラバーの反感を買うような行動はとらなかったはずだ。

龍馬は政治的に独立した国家を目指していて、貿易で世界と競い合い自発的に繁栄する国を望んでいた。そんな男が、イギリスやフランスの植民地になることを望むはずがない。

龍馬にとって薩長同盟は徳川幕府を威嚇するための策であり、その協力者したとしてグラバーの力を借りたというのが個人的な見解であり、龍馬はフリーメイソンの会員ではなかったという見解である。

今回のテーマで、龍馬とフリーメイソンの関係性は3つ。だが、いずれも出来事に基づいた推測である。

●龍馬はフリーメイソンの会員だったが途中で心変わりし、グラバーとの関係を断ち、独自の理想を実現しようとした。グラバーの反感を買って、イギリスが薩摩藩に龍馬の暗殺を依頼した

●龍馬はフリーメイソンの会員ではなかったがグラバーがフリーメイソンであることは知っていた。その資金力を得るために交友関係をもち、独自の理想を実現するために利用した

●薩長同盟を成立させ幕府を威嚇し、大政奉還を実現するためのコネクションとしてグラバーに近づいた。グラバーがフリーメイソンであることも知らないし、龍馬もフリーメイソンの会員ではない

龍馬がグラバーと関わっていたことは確か。そうなると、グラバーがフリーメイソンの会員であることを龍馬は知っていたのかもしれない。もしかしたら、入会の誘いを受けたこともあるかもしれない。

フリーメイソンは”秘密”を守る。いずれにしても、その秘密が明るみになることはないだろう。

大政奉還が成立する数ヵ月前に、龍馬は実の姉に手紙を書き、心情を明かしている。

この頃、ふと思うことがあります。

世の中の人間が皆、牡蠣の殻のような狭い世界で物事を考えていると分かりました。

おかしくて、おかしくて笑いがでるのです。

また、こんな言葉も龍馬は残している。

世の中の人が私の行動を理解できないのは、成し遂げたあとの日本を想像できないからだ。

だが、私には見えている。偉業を成し遂げたあと、生まれ変わった日本の姿が。

だから、誰に何を言われても信念が揺らぐことはない。

純粋に「日本を変えたい」「そのために新しい国家をつくりたい」そう願った龍馬。

なんとしてでも武力で徳川を滅ぼしたい薩長や、幕末の不安定な情勢に乗っかって利益を得ようとする者。挑発を繰り返す徳川幕府。結局は、みんな自分のことしか考えていない。

もっと広い視野で日本の未来を考えることはできないのか。そんな龍馬の心情を垣間見れる言葉ある。仲の悪かった長州と薩摩を和解させるとき、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)に言った言葉である。

桂さんよ、そんなに藩が大事かね。

薩摩がどうした?長州がどうした?大切なのは日本の未来じゃないか?

私は土佐出身の武士だが、そんなことは関係ない。日本の未来のために動いている。

薩長同盟を結ぶのは長州のためでも薩摩のためでもない、日本の未来のためだ。

お前らは長州人か、薩摩人か?違うだろ。同じ日本という国の人間じゃないのか!

これらの言葉から、龍馬がイギリス政府のために動いていたとは考えにくい。信じるか信じないか、あなた次第だが、あらためて龍馬の人生を振り返ってみると、やはり歴史のロマンを感じる。

最後に、おさらいとして龍馬が関与した歴史的な出来事を3つ記しておく。龍馬が”教科書から消える”という噂もあるが、たとえそうだとしても”記憶”からは消したくない歴史上の人物である。

<1866年 薩長同盟>

仲が悪かった薩摩藩と長州藩を結びつけ、徳川幕府を威嚇した。幕府は長州藩を壊滅するために第二次長州征討を行ったが、同盟国である薩摩藩の援護を得た長州藩は徳川幕府に勝利している。

参考:薩長同盟から龍馬の人物像を探る!学校では教わらない「坂本龍馬」の説明書


画像:一般社団法人萩市観光協会

<1867年 船中八策>

新しい国家の在り方・方針を考案し、記した提案書。

今まで以上に情勢が悪化すると武力での幕府壊滅を望んでいる薩長の動きが強まり、そうなれば徳川幕府との戦いだけではなく幕府を支持する藩とも戦争になり、日本は内戦・内乱で滅茶苦茶になる。

日本を植民地にしたいイギリスやフランスの動きも強まるだろうし、多くの血を流さずに平和的に解決したい、同時にイギリスやフランスに食い物にされるのを防ぎたい、と考えた龍馬。

長崎から京都へ向かう船の中で8項目の方針(策)をまとめたことから「船中八策」と名付けた。船中八策の一つが大政奉還である。

龍馬は土佐藩の山内容堂に船中八策を預け、山内は船中八策を基に徳川慶喜と協議し、この意向を了承した慶喜は二条城で政権を天皇へと返還した。

一、幕府は政治の権利を天皇に返し、幕府は天皇に仕える(大政奉還)
二、議会を設け、議員を置き、政治上の重要な問題は議論(公論)してから決める
三、有能な公家や大名だけに官職や官位(国家公務員の地位)を与える
四、外国と条約を結ぶときや友好関係をもつときには平等な条件と道理の通った規則を定める
五、国家の掟を定め、身分に関係なく万人が従う(ここで言う掟とは法律・憲法のこと)
六、海軍を増強する
七、天皇家に直属する軍隊を設置し、政治の拠点となる京都を守る
八、金や銀の値段は外国と等しい価値にする

明治政府が発行した「五箇条の御誓文」には、議会による政治や不平等条約の見直し、憲法の制定などが記されており、船中八策と重なる点が多い。


画像:国民宿舎桂浜荘内 高知県立坂本龍馬記念館(仮事務所)

<1867年 大政奉還>

徳川幕府が将軍職を廃止し、政治の権利を天皇に返還すること。京都の二条城で大政奉還の儀式が行われ、大政奉還は成立した。徳川家康から数えて15代目の慶喜で徳川幕府は終焉した。

武力による幕府の終焉ではなく、平和的な解決を望んでいた龍馬が日本の未来のために実現したかった政策の一つである。その翌月に龍馬は京都の近江屋で暗殺された。

大政奉還が成立し、国の治安や情勢は安定するかと思われたが、龍馬の死後、薩摩藩が幕府を挑発して辰巳戦争が起きる。龍馬の思い通りにはならず、武力によって徳川幕府は壊滅した。

参考:誰が龍馬を殺したのか?坂本龍馬の暗殺に隠された「6つの説」(前編)
参考:誰が龍馬を殺したのか?坂本龍馬の暗殺に隠された「6つの説」(後編)

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