画像:西郷隆盛宿陣跡資料室(延岡市観光協会)
さて、これまで【前編】【中編】にわたり紹介した西南戦争だが、いよいよ今回で最終章。西南戦争のなかで最も激闘と言われる「田原坂の戦い」は政府軍の圧勝だった。
田原坂の戦いで敗走した薩摩軍は政府の別動隊と衝背軍が熊本に上陸したとの情報を受け、急いで熊本へ南下する。薩摩と政府の決死をかけた熊本城での攻防戦が始まるのである。
薩摩軍、田原坂~熊本城へ
(1887年)田原坂の戦い
2月27日 高瀬の戦いで薩摩軍の桐野隊と政府軍が衝突。薩摩軍は撤退
3月3日 政府軍は田原坂と吉次峠の攻略に向けて攻撃を開始 3月4日 吉次峠の戦いで薩摩軍は政府軍に勝利 3月15日 薩摩軍は田原坂と吉次峠の中間に設けていた要所・横平山を政府軍に奪われる 3月19日 政府軍の別動隊と衝背軍が海路から上陸し、熊本城の援護に向け八代市を占領 3月20日 奇襲攻撃により田原坂の戦いで政府軍が圧勝。薩摩軍は敗走 |
政府軍は戦況や作戦を各地の部隊に電報で伝えており、博多に上陸した警視隊や別動隊を熊本に南下させる一方で、島原湾・八代海からの上陸作戦も同時に決行していた。
画像:Google.map
まずは、熊本に南下していた政府軍と北上する薩摩軍が植木市で交戦し、薩摩の桐野隊が勝利。次いで、高瀬(玉名市)に集まっていた政府軍と交戦したが、桐野隊は敗戦し撤退した。
今度は、吉次峠に攻め込む政府軍を薩摩軍が撃退。博多から南下してきた政府軍は田原坂(①)で薩摩軍と激闘を繰り広げ、悪天候を味方につけた政府軍が圧勝した。
3月18日には政府の警視隊と薩摩の先発隊が二重峠(②)で戦い、薩摩軍が勝利。このとき、警視隊・第一小隊長の佐川官兵衛が戦死している。
3月19日、政府の別動隊は島原湾から宇土半島(③)に上陸し、衝背軍は八代海の州口海岸(④)に上陸。衝背軍は海岸に防御線を張っていた薩摩軍を撃退し、その日のうちに八代(⑤)を占領した。
政府軍の上陸作戦
画像:薩肥海鹿兒島逆徒征討圖(早川松山画)
3月26日、衝背軍と薩摩軍が小川・現在の浮城市(⑥)で交戦。勝利した衝背軍は熊本に向けて北上を続け、3月31日の松橋・現在の宇城市(⑦)での戦いにも薩摩軍に勝利している。
さらに勢いは続き、4月1日に宇土・現在の宇土市(⑧)を制圧した衝背軍は別動隊と合流。4月12日、両軍は熊本城へ向けて怒涛の勢いで進軍した。
このとき、薩摩の三番隊長・永山弥一郎は田原坂から熊本城へ南下する薩摩軍の指揮を任されており、着々と進軍する衝背軍を目の当たりにし、その責任を感じた永山は自害している。
その頃、熊本城を守っていた谷少佐は政府の援軍が向かっていることを知らされる。熊本城は政府陸軍の本部になっていたため、絶対に死守しなければならなかった。
谷少佐は政府軍の総司令官・山県有朋から「援軍が到着するまで絶対死守」を命じられており、その期待に応え、籠城戦にて23日間守り切ったのである。
画像:Google.map
①・・・博多から南下してきた警視隊と薩摩の先発隊が交戦。二重峠の戦いは薩摩軍の勝利
②・・・高瀬、吉次峠の戦いを経て、田原坂の戦いでは政府軍が圧勝 ③・・・別動隊が島原湾から宇土半島に上陸。宇土を目指して進軍 ④・・・衝背軍が八代海の州口海岸に上陸。海岸に防御線を張っていた薩摩軍に勝利 ⑤・・・衝背軍が八代を占領 ⑥・・・衝背軍と薩摩軍が小川で交戦し、勝利した衝背軍は北上 ⑦・・・北上する衝背軍は松橋でも薩摩軍を撃退。さらに北上する ⑧・・・衝背軍は宇土を制圧。別動隊と合流し、熊本城へ進軍 ⑨・・・薩摩軍は熊本城から撤退。谷少佐は任務を遂げ、23日間守り切った |
熊本城の籠城戦において谷少佐は薩摩の兵に狙撃され、銃弾が喉を貫通する重傷を負いながらも任務を完了させた。熊本城を包囲していた薩摩の兵3000は、衝背軍が熊本城に迫っていることを知って撤退する。
撤退後、薩摩軍は南下して人吉市に陣営を築くが、政府軍の奇襲を受けて6月1日に撤退。宮崎に拠点を移そうとしたが7月24日に都城市が占領され、ついに宮崎・本陣の延岡市も8月14日に占拠されてしまう。
8月15日、西郷は延岡の奪回を決意し、ここで初めて自ら軍の指揮をとる。兵士たちは「西郷殿が動くということは最終決戦になるかもしれない」と身震いしたそうだ。
薩摩の兵3000は政府軍を相手に奮戦したが、圧倒的な兵力と武力の差を見せつけられ、その翌日に西郷は生き残った兵に対して「薩摩軍の解散」を告げる。
政府に投降(自首)する者や逃走する者など、それらを省いて残った兵は600余りだった。そして、西南戦争は鹿児島の城山でクライマックスを迎える。
西郷、城山へ帰還する
画像:西郷隆盛宿陣跡資料室(延岡市観光協会)
<政府軍の戦況>
- 6月1日・・・人吉を占領
(薩摩軍は宮崎に敗走)
- 7月24日・・・都城市を占領
- 8月14日・・・宮崎・本陣の延岡を占拠
- 8月15日・・・延岡で薩摩軍に圧勝
- 8月30日・・・高鍋を占拠し、宮崎全域を制圧
(鹿児島を目指して敗走)
8月17日15:00、薩摩軍は長井村(延岡市臼杵郡)で政府軍に包囲されており、西郷は可愛岳の突破を決意。このとき兵士たちに「鹿児島での集結」を誓い、仲間は夜の闇へと消えていく。
突破隊は、前軍に河野主一郎と辺見十郎太、中軍に桐野利秋と村田新八、後軍に中島健彦と貴島清で編成。池上四郎と別府晋介は兵60名で西郷隆盛を護衛した。
8月24日に西郷は少数の兵を引連れて宮崎県の七ツ山(臼杵郡)~松の平(黒川郡)を抜け、神門神社(美郷町)に出たが松浦少佐が率いる政府の別働隊・第2旅団と遭遇し、攻撃を受ける。
なんとか可愛岳を突破し長井村の包囲網から抜け出すと、26日には宮崎の村所(西米良村)、28日には須木村(西諸県郡)を経由し、小林(小林市)に入った。
画像: 西郷隆盛宿陣跡資料室-外観
さらに、城山への最短距離である加治木(鹿児島県姶良市加治木)を経由して鹿児島へ入ろうと試みたが、すでに錦江湾に上陸していた別働隊・第2旅団に侵入を阻まれ失敗に終わる。
西郷は、ただでは転ばない男。「薩摩の兵は鹿児島に戻ってくるだろう」と政府も考えていたため、”残党狩り”を目的とする政府軍が至る所で待ち構えていたのだ。
仕方なく迂回を選択し、薩摩国吉野(鹿児島市吉野町)を南に下って城山を目指す。またもや西郷は政府軍と遭遇するが、辺見が城山後方から岩崎谷に到着すると私学校の前で政府軍と交戦する。
ちなみに、城山と私学校(薩摩軍本営)は直ぐ近くの距離。辺見が戦っている間に西郷は城山への帰還を試みる。辺見は西郷を”神”と仰ぎ、いかなる修羅場も共にしてきた戦友だった。
特攻とも言える辺見隊の命知らずの激しい攻撃に私学校を守備していた政府軍200人は撤退し、その隙を見計らって西郷は9月1日の正午に城山へ戻ることができた。このとき、辺見の働きによって私学校を奪還。
9月2日に薩摩軍は城山に戦力を集中させ、大砲も設置した。9月3日には城山周辺の前方部隊を配備し、9月4日に貴島が西郷に申し出て米倉に奇襲攻撃を仕掛ける。
米倉の奪還で見せた薩摩魂
画像: 西郷隆盛之像(城山公園)
9月2日に城山に帰還して以降、薩摩軍と政府軍は互いに威嚇射撃するだけで進展はなかった。
しかし、次第に形成は逆転する。残党狩りで鹿児島各地に散らばっていた政府軍の兵が城山に一同集結し、圧倒的な兵力の差が出始めるのである。
この動きに気づいた貴島は、「今のうちに米倉(食糧庫)を奪還しなければ勝ち目がなくなる」と西郷に申し出た。米倉には食料のほかにも武器や弾薬などが蓄えられていた。
長期戦を見込んで米倉を奪還しておく必要があったのだ。だが、この米倉は政府軍の抜刀隊(新撰旅団)が守備しており、さらに周囲には最新の銃をもつ警視隊がにらみをきかせていた。
気がつけば、続々と城山に政府軍が集まり、その数は4000人余り。対して薩摩軍は400。この中を突破して米倉に行き、生還するのは普通に考えれば不可能である。
4日の深夜3時、貴島は150の兵を連れて城山から米倉へ向けて出発する。すぐさま気づかれ近距離での交戦が繰り広げられる。
一歩もひるまぬ貴島隊の攻撃に抜刀隊や第2旅団は腰を抜かしたが、あまりにも兵力に差があり、貴島隊は全滅。一人も生き残ることはなかった。
無謀な作戦に自ら志願し身を投じた貴島清。1868年の戊辰戦争では征討軍として西郷と共に戦い、西南戦争が勃発すると藩地で同士に集合をかけて3月14日に熊本へ駆けつけている。
可愛岳突破では後衛部隊を指揮、鹿児島城下突入では先頭に立って奮戦した。享年35歳。薩摩の武士は天下無敵と言われる所以は、こうした勇猛果敢な武士が多かったからではないだろうか。
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