いつから「鎖国」は始まった?教科書から「鎖国」が消えるって本当?(前編)
画像:黒船に関する資料「異国船図-北亜墨利加」(東京都立図書館)
近い将来、日本の教科書から「鎖国」という言葉が消えるかもしれないそうです。代わりに「(徳川幕府の)対外政策」という表現が検討されているとのことですが、今のところ変更の時期は決まっていません。
鎖国という言葉が改正の候補になっている理由は、一部の国とは貿易や文化交流を行っており、完全に外国との関係を絶っていたわけではないことから、徳川幕府の対外政策という言い方に改める案が出ているようです。
そもそも、なぜ幕府は鎖国を行ったのでしょうか。今回は、鎖国の発端や鎖国に関係する江戸時代の出来事などを確認してみましょう。日本史には欠かせないテーマなので、大まかなポイントは把握しておきたいですね。
なぜ鎖国が始まった?
画像:天草四郎の像(原城本丸跡)
鎖国の発端は「キリスト教」の廃絶です。秀吉が行った伴天連(バテレン)追放、 キリスト教布教の禁止、キリスト教の禁止令までさかのぼり、戦国時代(1587年)にキリシタン(キリスト教徒)を追放する動きが本格化しました。
弾圧した結果、キリシタンは各地で身を隠して暮らすようになりますが、江戸時代に入ると重税や迫害など幕府の横暴に対して我慢の限界に達したキリシタンが天草(熊本)で決起し、1637年12月の「島原の乱」へと発展します。
島原の乱では天草四郎(益田四郎)が率いる籠城軍3万7000人と幕府軍12万6000人が戦い、籠城軍は全滅(島原記より引用)。江戸時代に起こった一揆で、歴史上もっとも大規模な一揆と言われています。
その後も、キリシタンを見つけては処罰したり差別したり“キリシタン狩り”は続き、やがて徳川幕府は外国への渡航や異国人との交流を禁止するようになるのです。もちろん、キリスト教に関わる国との貿易もダメ。
ちなみに、幕府のキリシタン狩りは徹底しており、3代目の将軍・徳川家光は、キリストやマリアが書かれた木板や金属板(踏み絵)を足で踏ませ、キリスト教の信者か否かを見分けていました。発見次第、すぐさま処刑という状態。
島原の乱がきっかけとなり、キリスト教に関係するスペインやポルトガルとの貿易を禁止し、最終的には海外に行ったり帰ってきたりすることも禁止。そんな幕府の様子を見て、江戸時代の後期には「鎖国」と呼ばれるようになりました。
つまり、鎖国という呼び方は周囲が名付けたもので、幕府にしてみれば“政策”の一つだったのです。そのため、鎖国という表現は何かとイメージが悪いので、近年、「幕府の対外政策」という表現に改めようとしているわけですね。
キリスト教に関係する国との貿易を禁止、貿易できる国を制限、キリスト教の信仰を禁止、外国への渡航を禁止、外国からの帰国も禁止、こうした幕府の政策が「鎖国」になります。
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