なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.1
画像:豊臣秀吉公銅像(豊國神社)
1582年6月12日に織田信長が本能寺の変で死没すると、次は羽柴秀吉が天下統一に名乗りをあげ、正親町天皇から豊臣の姓を賜り太政大臣に就任し、一大権利となる「豊臣政権」を確立しました。
清須会議を経て小牧長久手の戦いで徳川家康と和解し、小田原征伐で北条氏を討ち取り、奥州仕置きで各地の大名を服従させ、九戸政実の乱を鎮圧し、このときをもって天下統一を成し遂げました。
天下統一を揺るぎないものにするため、秀吉は「五大老」と「五奉行」を中核とした「豊臣政権」を確立しますが、現代で例えるなら豊臣政権は大企業のような組織でした。
しかし、秀吉が病死すると息子の秀頼が跡を継ぎますが、家康の権力によって豊臣政権は崩壊。今回は「なぜ豊臣家は滅びたのか」をテーマに、戦国時代の終末期についてポイントをおさらいしたいと思います。
木下藤吉郎から豊臣秀吉へ
画像:豊臣秀吉之像(藤原邦信画-大阪城)
秀吉は幼少期に「木下(きのした)」の姓を名乗り、信長に仕えると「木下藤吉郎」から「羽柴秀吉」へと改名し、そして正親町天皇から「豊臣」の姓を授かり、世間一般的に知られる豊臣秀吉となりました。
信長の雑用係から始まった秀吉は、数々の合戦で功績を挙げると武将に昇格し、のちに大名の仲間入りを果たし、最終的には天下統一を成し遂げています。これって、もの凄い出世街道なんですよね。
秀吉は農民の息子として生まれたわけですから、ほかの武将よりも大きなハンデを背負ってスタートしていますし、相当な努力とスキルを備えながら励まないと天下統一は実現できなかったと思います。
参考:人たらしの天才、豊臣秀吉の”褒め上手”に学ぶ「人を動かす」テクニック(前編)
参考:人たらしの天才、豊臣秀吉の”褒め上手”に学ぶ「人を動かす」テクニック(後編)
さて、そんな秀吉が「どのようにして天下を取ったか」というと、信長の死後、怒涛の勢いで天下取りに向けて動いています。どの時点をもって天下統一とみなすか意見がわかれますが、ここでは九戸政実の乱を天下統一の総仕上げとしました。
1582年6月12日・・・信長が死去
1582年7月16日・・・清須会議で宣戦布告
1584年4月23日・・・小牧長久手の戦いで家康と和解
1584年12月22日・・・従三位権大納言(公卿)に就任
1585年4月9日・・・正二位内大臣(関白)に就任し、公卿と兼任する
1586年10月21日・・・正親町天皇から豊臣の姓を授かる
1587年2月2日・・・太政大臣に就任し、「豊臣政権」を確立する
1587年12月22日 豊臣秀次に関白を譲って太閤となる
1590年5月1日・・・小田原征伐で北条氏を追放し、奥州仕置きで各地の大名を制圧
1591年10月21日・・・九戸政実の乱を鎮圧し、天下統一を成し遂げた
公卿・・・天皇の家系にあたる「公家(くげ)」と同じ立場
関白・・・天皇と相談しながら政治を行う天皇家の役職(官職)
太政大臣・・・天皇と同じくらいの権力をもつ天皇家の役職(官職)
太閤・・・関白を自分の息子に譲った人に与えられる天皇家の役職(官職)
さて、豊臣政権を築いた秀吉は、天下統一を揺るぎないものにするために有力な大名の中から「五大老」と「五奉行」を選任し、それらを中核とした組織体制をつくり、豊臣家の権力を全国に知らしめました。
「五大老」と「五奉行」
画像:徳川家康公之絵(徳川美術館)
豊臣政権は、秀吉が死んだあとも豊臣家の天下を末永く維持するための策だったと言われていますが、その目的として権力をもつ有力な大名を抱え込んでおくための策でもありました。
なかでも莫大な領地と財力を保持していた家康は、秀吉と豊臣家にとって脅威だったのです。事実、秀吉が天下取りに名乗りを挙げたとき、対立した家康は小牧長久手で秀吉と戦ったわけですから。
つまり、戦国は、”権力と武力”で天下統一のチャンスを手にできる時代。せっかく成し遂げた天下統一を台無しにしないように、有力な大名を縛り付けておくための手段が豊臣政権というわけです。
そして、豊臣政権の中核だったのが「五大老」と「五奉行」。現代の企業で例えると、秀吉を社長とするなら五大老は役員や最高幹部で、五奉行は社長秘書や中間管理職といったところでしょうか。
まず、五大老に選任されたのは、副社長として徳川家康、専務に前田利家、常務に宇喜多秀家、その幹部を補佐する相談役に毛利輝元と上杉景勝が選ばれました。
●五大老の財力
徳川家康・・・260万石
毛利輝元・・・125万石
上杉景勝・・・120万石
前田利家・・・90~100万石
宇喜多秀家・・・60万石
いずれも各地方を仕切る大名で、豊臣家と同じくらい大きな財力と武力をもっています。「いい役職を与えるから豊臣家の最高幹部として力を貸してね」という秀吉の思惑が垣間見えますね。
次に五奉行ですが、現場で指揮をとったりアイデアや企画を立案したり、ときには秀吉のパシリになって用事や問題を解決したりするなど、社長と五大老に挟まれて結構ストレスを抱える微妙な立場。
社長秘書=側近として石田三成、本部長には前田玄以や浅野長政、増田長盛や長束正家が選任され、こうして五大老と五奉行を柱とする豊臣政権が誕生しました。
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