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なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.4

なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.4


画像:決戦!関ヶ原「石田多加幸氏蔵-大谷吉継公之像」(講談社)

「直江状」が発端となり、上杉家の挑発にのった家康は「会津征伐」を決定しました。各地の大名に出陣命令を下し、福島へと向かいます。(Vol.2の「なぜ直江状は必要だった?」を参照)

大谷吉継も家康から要請を受け、1000人の兵を率いて敦賀城を出発しましたが、福井に向かう途中、吉継は岐阜の垂井で兵を止め、佐和山(滋賀)に使者を出しました。

  大谷吉継の男気


画像:石田三成居城-佐和山城跡(滋賀県彦根市)

吉継が佐和山に使者を出した理由は、「三成を福井に連れていこう」と考えたからです。すでに三成と家康が対立していることは周知の事実でした。

吉継は三成を会津征伐に同行させ、仲直りの機会をつくろうとしたわけです。しかし、その想いと裏腹に事態は思わぬ方向へと進んでしまいます。

使者が伝言を持ち帰って吉継のもとに戻ってきました。三成の伝言は、「天下を揺るがす大事な話があるから佐和山まで来て欲しい」という内容でした。吉継は福島行きを中断し、急いで佐和山へ向かいます。

到着するなり吉継は、三成から衝撃な事実を聞かされるのです。

「吉継くん、わざわざ呼びつけて申し訳なかったね」

「俺ら親友じゃん、気にしないで。ところで、大事な話って何?」

「実はね、家康と戦うために協力してくれる大名や武将が集まっているんだ」

家康の討伐を計画していると聞かされた吉継は猛反対し、三成を説得しましたが聞く耳もたずの状態。それどころか、逆に三成から協力してほしいと頼まれることになります。

「三成、相手が悪すぎるよ。いくら計画が順調でも実戦では思い通りにいかないよ」

「俺の決心は揺らがないよ!だから吉継くんにも協力してほしいんだ」

「ダメだよ三成。考え直せって。みんなで家康に頭を下げよう」

「それはできない。家康を放っておくと秀頼様の命が危うくなるから」

押し問答は一日中続き、とうとう結論が出ることなく吉継は佐和山を出ました。家康に従って上杉の討伐に参加するか、それとも三成の説得を続けるべきか・・・。

吉継は3日間にわたり三成に手紙を送り必死に説得しましたが、返事は「俺と一緒に家康を倒そう」の一点張り。吉継にとって三成に協力するということは大谷家の存続に関わる大問題です。

主君の家康を裏切ることになり、大谷家には汚名がきせられ、残された者たちを苦境に立たせてしまいます。一族や家来の将来を一番に考え家康に従うべきか、全てを犠牲にして三成に味方するか、究極の選択でした。

そして、4日目の朝、ついに吉継は決心します。佐和山へ行き、「共に戦う」ことを告げるのです。吉継は、きっと負け戦になると覚悟していたのではないでしょうか。それでも、家康ではなく三成を選びました。

もちろん軽はずみな決断とは思えませんし、家族や部下を危険にさらしてでも三成に加勢することを選んだわけで、吉継にとって「友情」とは大きな意味をもっていたに違いありません。

参考:関ケ原に散った友。最後の戦いで「大谷吉継」が選んだ三成と平塚との友情物語

  増田長盛は家康のスパイだったのか?


画像:栗原信充作-増田長盛(国立国会図書館)

三成は、大阪城に待機している毛利輝元に三重への出陣をお願いしましたが、輝元は大坂城に留まり、家臣の吉川広家と毛利秀元に1万8千人の軍勢を預けて代わりに出陣させています。

参考:なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.3

なぜ輝元は関ヶ原へ出陣せず大坂城に留まったのでしょうか。それは、増田長盛を監視するためでした。

長盛といえば五奉行の一人。三成とは同僚ですが、実は、家康ともつながりのある人物。輝元は「長盛が家康に情報を流している」という噂を聞きつけ、大阪城を離れることは危険と考えたのです。

事実、三成が大名や武将に召集をかけたとき、長盛は使者を出し、会津征伐に向かう途中の家康に「三成が大阪城で戦の準備をしています」と報告しています。

長盛は豊臣家に仕える有能な家臣の一人で、中国攻めや鳥取攻め、小牧長久手の戦いや信州攻め、小田原攻めや奥州仕置きなど秀吉の天下取りに大きく貢献しました。

その功績が認められ豊臣政権では五奉行に選任され、三条大橋や五条大橋の工事、太閤検地や朝鮮出兵など重要な仕事を任されていたのです。今でも三条大橋には長盛の名が刻まれています。

三成が家康討伐を決めたとき、長盛は豊臣秀頼の補佐として大阪城では中心的な役割を担いました。
ところが、三成の勝手な行動が次第に目立ってくると、不信感を覚えるようになります。

秀吉の死後、家康が不穏な動きを始めると長束正家や前田玄以、三成と自分の名で家康の悪事を追求する内容を記した文書を作成し、各地の大名に送っています。

宇喜多秀家の援軍として伏見城の戦いにも参加し、大津城の戦いでは敵方の主要な人物たちを降伏させるなど、あきらかに反徳川の姿勢を見せていました。

つまり、長盛は西軍の主要人物を務めながらも、一方では家康に三成の動きを知らせるスパイ活動も行っており、両軍に加勢していたということになるわけです。

実際、関ケ原の本戦が始まったとき、長盛は参加せずに大阪城に残っています。家臣の高田小左衛門に兵を預けて西軍として出陣させていますが、西軍の挙動を家康に報告するのが任務でした。

長盛は豊臣家に忠義を尽くした筋の通った男なのに、なぜ、そのような行動をとったかというと、どちらが勝っても生き残れる方法を選んだと言われています。

豊臣家は守りたいけど、三成のために命を落とす気はない、それが本音。その証拠に、関ケ原の戦いで勝った家康が大阪の陣で豊臣家を滅ぼす際、長盛は家康の要請を断り自害を命じられています。

あくまでも、関ケ原の戦いで西軍に加勢したのは豊臣家の一員という大義のため。西軍が負けても、どうにかして豊臣家を存続させたかったのではないでしょうか。

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