遷都1426年の歴史を学ぶ!なぜ「東京」が「日本の都」になった?(後編)
画像:前島密之写(華族画報社-©1913華族画報)
前島密が推奨した「東京遷都」の案に同調した大久保利通は、政治の中心地(都)を江戸に移すことを政府の関係者に提案しましたが、もう一つの案が政府の内部で浮上します。
それは、江戸と京都の両方を都と定め、東西に分けて政治を行う「両都制(両都論)」という案でした。
この案は明治元年(1968年)4月に佐賀藩の江藤新平と大木喬任が岩倉具視に意見書を提出したことが発端で、その意見書には主に次の4点が記されていました。
佐賀藩の両都制(両都論)
画像:魁斉芳年作「武州六郷船渡圖」明治天皇の東京行幸(新潮社-日本精神講座-第一巻)
一. 江戸を「東京」へと改名する
二. 江戸と京都をつなぐ鉄道を建設する
三. 江戸と京都の両方を「都」とする
四. 西日本の政治は京都で行い、東日本の政治は江戸が管轄する
つまり、江戸から東京へと名前が変わったのは会津藩の発案が由来になっています。そして、1868年9月3日に明治天皇が、「江戸ヲ称シテ東京ト為ス(江戸を東京に改名する)」と発表しました。
さて、江戸が都になると、当然ながら京都の市民は反発します。1000年以上も京都が都だったわけですから、いきなり「江戸が都」と言われても素直に受け入れることはできないのです。
そこで、明治天皇は、1968年9月に京都を出発し、行幸で東京を視察しました。このときは、まだ天皇の住まいは京都であり、東京で政治を行うと発表しましたが、都が東京に移されるとは決まっていません。
天皇は東京の行幸を終え、すぐに京都へ戻ろうとしましたが、天皇家の重職(公卿)を務めていた三条実美は、しばらく東京に滞在することを推奨します。
※行幸・・・天皇が外出すること
すぐに東京を発ってしまえば、東京市民に不安と不信感を与えると考えたからです。市民が天皇に不安を抱くと信頼や支持を損なう要因となり、東京遷都が行われる際、問題になってしまいます。
かといって、京都の市民を放置するのも好ましくありません。三条実美は関西と関東の人を比較し、性格や考え方の傾向など徹底的に分析し、一つの答えにたどり着きました。
明治天皇、東京城に引っ越す
画像:皇居内の北桔橋門(宮内庁)
その答えとは、このまま東京に引っ越して、京都に行くときには還幸という名目で東京を離れる、そうすれば東京市民に不安を与えないと考えました。
※還幸・・・天皇が出先から戻ること
11月26日には江戸城を東京城に改名し、天皇が住むための皇居づくりが本格的に進められることになります。そして、1869年1月20日、還幸という名目で明治天皇は京都に向けて東京を出発。
この還幸にあたり、東京市民が「本当に帰ってくるの?」と不安を抱かないように、東京城の本丸跡に皇居(宮殿)を造設すると公表してから出発しました。
つまり、京都に行くのは還幸であり、東京に還御することを約束したわけです。いずれも最上級の丁寧語ですが、意味が全く異なるので東京市民に与える安心感も大きかったと言えます。
※還御・・・天皇が皇居に帰還すること
遷都するうえで問題になる要因は「市民の存在」です。これまで京都や大阪は天皇の恩恵を受けてきており、都が東京に移されることで大きな失望と不満が生じることは言うまでもありません。
一方、東京は徳川の恩恵を受けてきた町です。江戸幕府が終わり、徳川が滅ぼされた恨みは絶大なもの。京都の失望と東京の恨み、それらを比較すると東京が抱える傷のほうが深かったのです。
このことを三条実美は政府や天皇の関係者に説き、たとえ東京や大阪の市民に失望を与えたとしても、東京が上手く機能すれば関西が廃れることはないと考えました。
明治天皇は1868年9月に行幸で東京を訪れ、1869年1月に京都へ行幸のために還幸し、1869年5月に再び行幸で東京に戻ります。東京と京都の市民に気を遣って行ったり来たり・・・。
1869年11月27日には完全に住居を京都御所から東京城に移し、このとき、東京城を「皇城」と呼ぶように改め、次第に政治の中心も東京へと変わります。
明治政府の太政官(国家の意思を決定する権限をもつ国家の最高機関)も京都から東京に移され、
これによって次第に「東京が日本の都」として認識されるようになりました。
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