信長公記・首巻その10 「尾張統一の完成」
画像:若かりし頃の前田利家の像(名古屋市中川区・荒子駅)
森部の戦い
1561年6月25日(永禄4年)、信長は木曽川(岐阜と愛知を繋ぐ一級河川)を北上して飛騨川(岐阜の北部から南部へ流れる一級河川)を渡り、勝村(岐阜県海津市平田町)に陣を構えた。
西美濃への侵攻である。これを察した美濃衆(斎藤道三を殺して斎藤義龍が当主になっている)は7月26日、長井甲斐守、日比野下野守らが豪雨の中、墨俣(岐阜県大垣市墨俣町)から兵を繰り出して森辺(岐阜県安八郡安八町森部)まで南下してきた。
迅速な進軍を見た信長は、「天が決めた場所」と不気味に笑い、全軍で北上して美濃の軍勢が待ち構える森部へと突撃した。序盤から乱戦だったが信長の圧勝に終わった。
美濃衆は長井、日比野をはじめ170ばかりの兵が討ち取られ、織田軍の前田利家は豪族の足立六兵衛との首を討ち取った。この頃、利家は、1559年に信長の世話係を斬り殺した件で謹慎処分を受けていた。
前年の桶狭間の戦い(1560年)でも首を2つ取っていたが、許されることはなかった。今度こそはと、強引に森部の戦いに参加し活躍したことで、ようやく放免された(罪を許された)。
美濃十四条の攻防戦
森部の合戦が終わり、信長は墨俣を奪い、陣を構えた。8月4日に態勢を立て直した美濃衆が攻め寄せ、墨俣の北・十四条(真正町)に兵を配置した。
信長は墨俣から出撃して迎え撃ったが、犬山城主の織田信清(信長の父・信秀の弟である織田信康が父)の弟・信益が戦死した。信長は兵を退かせたが、美濃衆は北軽海(真正町内)まで南下して織田の軍勢を逃がさなかった。
信長は西軽海(真正町内)の古宮という場所に陣を構えて応戦した。夜になっても合戦は続いており、消耗戦になるかと思われたが信長に好機が訪れる。
美濃衆の真木村牛介らの軍勢を撃退することに成功し、織田軍は池田恒興、佐々成政が稲葉又右衛門を討ち取った。以降も混戦となったが次第に織田軍が優勢となり、美濃衆は撤退した。信長も翌朝には西軽海を出て墨俣へ戻った。
有能な部下の死
1562年(永禄5年)、追放された織田信賢(織田岩倉の旧・当主)の領土を巡って織田信清と対立していた。ちなみに、信清は信長の援軍として浮野の合戦に兵を出している。
信清が斎藤龍興と手を組んで信長に反旗を翻したため、7月下旬、信長は信清の所領にある於久地城(小口城。愛知県丹羽郡大口町の北部)を攻めた。
この戦いで岩室長門守(岩室重休)が戦死したが、岩室は桶狭間の戦いにおいて、誰よりも早く出発した信長の次に清洲城を出発した人物だった。信長は岩室の死を悲しんでいた。
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