信長公記・首巻その2 「織田信秀の死と聖徳寺の会見」
画像:末森城跡(名古屋市千種区城山町)
犬山勢を蹴散らす
信秀は古渡城を破却し、末盛(名古屋市千種区)に城を建て住んでいた。末盛城(末森城)である。
1549年(天文18年)1月17日、犬山城の織田信清(織田伊勢守家の配下。犬山勢)が挙兵し、春日井原(愛知県春日井市の西部)から井口(美濃・稲葉山の城下。斎藤道三の領土)に出て放火を繰り返していた。
斎藤道三と織田弾正忠家の信秀は縁戚関係(信長と道三の娘が結婚)であることから、信秀は護衛のために出陣し、犬山勢を切り崩して敗走させた。戦後、犬山勢を馬鹿にする落書きが各所に掲げられ、軟弱であると揶揄した。
この戦いで信秀の弟である織田信光が活躍した城は守山城である。
信秀の死と家督相続
信秀は疫病を患い、祈祷や療養を施したが回復せず、1552年(天文21年)3月27日に42歳の若さで他界した。供養のために万松寺が建てられ、葬儀に尾張国の僧や各地の僧らを招き、その数は300人を超えた。
信長は信秀の跡を継ぎ、家督を譲り受け、織田弾正忠家の当主となった。
信長は林、平手、青山、内藤を引き連れて出席した。信長の弟・信行は柴田勝家、佐久間盛重、佐久間信盛らを従えて出席した。そして、信長が焼香する番になった。
信長の恰好は、長太刀と脇差をぶら下げて、髪は茶筅のように見立て赤の糸で結び、袴も履かずにいた。その格好で抹香を鷲掴みにして信秀の位牌に投げかけ、何も言わずに帰ってしまった。
一方の信行はお手本通りの服装と作法で礼儀正しく焼香を行った。参列者は誰もが「信長は大うつけだな」と言ったが、筑紫(福岡県筑紫野市)から来た僧だけは信長の振る舞いを見て「まさに国主の器だ」と感心したそうだ。
信秀の死後、信長は上総介信長と名乗った。末盛城は信行に譲られ、柴田や佐久間らが守衛した。
余談だが、平手政秀には五郎右衛門(平手久秀と思われる)、平手監物、甚左衛門(平手汎秀)の三子がおり、長男の五郎右衛門は駿馬(名馬)を所有していた。
それを信長が欲しがったところ、「聞けぬ願いだ」と皮肉に断られた。信長は根に持って五郎右衛門に冷たく接するようになった。
信長の行儀の悪さは日頃から目立ったが、平手は教育係としての自分の無力さを嘆き、信長の素行の悪さは自分にあると悔やみ、「私が生きている価値はない」と腹を切って死んでしまった(自害した)。
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