信長公記・首巻その9 「織田伊勢守家(岩倉織田)の消滅」
画像:斎藤義龍の肖像(常在寺)
大良川の戦い
長良川の合戦は斎藤道三が敗れ、斎藤義龍(道三の息子)の勝利に終わった。勢いに乗った義龍は、大良口(岐阜県鳥羽市)に進軍していた信長にも軍勢を差し向けてきた。
そして、両軍は大良川の河原で衝突した。波のごとく攻め寄せる義龍の軍勢に、織田軍は山口取手介や土方彦三郎など名のある武将が討ち取られた。また、森可成は斎藤軍の千石又一と一騎打ちし、膝を斬られて退却した。
そんな状況のなか、信長に「道三が討死にした」という悲報が届く。その報告を知った織田の兵たちは戦意を失いかけた。
すると信長は顔色一つ変えず、「織田の背後は川だ。まずは荷物持ちや牛・馬を非難させよ。そのあとに兵が退却せよ。心配するな、俺が殿(しんがり)に立つ」と言い、信長は少ない兵を連れて船に乗り、川の上で斎藤軍を迎え撃った。
殿(しんがり)とは、味方の兵が退却できるように後方で敵の追撃を防ぐ、または時間稼ぎするという命がけの役目である。信長に従って織田の兵たちは大良川から退却を始めた。
信長の前方に追撃の兵が迫ると、信長は鬼のような形相で鉄砲を撃った。この行動に対して斎藤の追撃兵は不意をつかれ、必要以上に織田軍を追撃するのを中止した。それを確認した信長も、長良川から退却した。
道三の死は、尾張国(愛知県の西部)の情勢にも影響を及ぼした。尾張上四郡の領主・織田伊勢守(岩倉織田家)の織田信安は、義龍と手を組んで清洲城の近く下之郷(愛知県清須市春日町)に侵攻して田や村を焼き払った。
すぐに信長は兵を挙げて岩倉(愛知県岩倉市)に出陣し、下之郷の報復として岩倉織田の所領を焼き払った。しかし、下四郡では信安に寝返る者が相次いで信長は劣勢に立たされた。
国主の器
清洲城から3.3キロメートルほどの下津の郷(愛知県稲沢市)に、曹洞宗(仏教における宗派の一つ)の正眼寺があった。ここは要害(複雑な立地)の場所であり、正眼寺に信安が砦を築くという噂が信長の耳に入った。
信長は先手を打ち、清洲城下の人々を動員し、寺の藪(やぶ)や木々を切り、要害としての価値を無くそうとした。
作事が始まって数時間すると町人たちから不満の声が上がった。敵地に近い場所で作業するにあたり、護衛の兵が少ない(80人ばかり)から作業に集中できないと言うのだ。
しかし、この不安は的中し、岩倉織田の軍勢3000が正眼寺に攻め寄せたのである。信長は作業を中断して町人に竹槍を持たせ、後方の茂みに整列させた。つまり、後方には兵が控えていると見せつけるためだった。
前線では織田80人の兵が援軍の到着まで時間稼ぎした。
さて、話は変わり、1556年5月(弘治2年)の上旬、三河(愛知県の東部)守護職の吉良義昭と斯波義銀(尾張守護職の子孫)が対面し、駿河国(静岡県)の今川義元が仲介人を務めた。
義銀の護衛として信長も同席した。対面の場所は三河国の上野原(愛知県豊田市)。両者が上野原に到着し、互いに100メートルほどの距離を置き、その後ろには護衛が整列している。
吉良と義銀は床机(椅子)に座っていたが、二人は動こうとしなかった。そして、しばらくして互いに十歩ほど前へ出て顔を見せ合っただけで、特別な挨拶も交わすことなく対面は終わった。
義銀の毅然とした態度を見た信長は「まさに国主の器」と感服し、清洲城の本丸を義銀に譲り、自分は北櫓に移った。
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